80歳まで働く

先日の日経新聞にイオンの定年延長制度(60歳以降、65歳までの働き方)が載っていた。多くの企業が再雇用制度で急場をしのぐなか、59歳までと同じ条件(同一賃金、昇格もあり)を60歳以降にも提示する考え方は、他社に一歩先んじた秀逸な試みに映る。

いつまで働くかは個々の考え方に依拠するが、高齢化社会に向かう中、より多様な考え方が有っても良いと考える。 ちなみに私は80歳まで働きたいと思っているが皆さんはどうだろう?

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私の家系は長寿である。 祖父は102歳での大往生であったし、父も85歳で元気である。そんな健康遺伝子(?)のお陰で、人生100年、が私の思考のベースラインにある。そうなると、大学卒業後80年近くも生きることになるのである。

これだけ長く生きる可能性があると、ライフデザインをある程度組みあげておいた方が良さそうだぞ、と30代に入ったあたりから微妙に感じていた。 その際に厄介に感じていたのが、日本企業における60歳定年という線引きである。体力・知力の年齢個人差は大きくあると思うのだが、日本企業はこの点において狭量である。 定年しても私の場合はそれまでの40年間と同じ長さの時間がその先に横たわっているのであり、60歳はただの“折り返し地点”でしかなく、引退という気分にさらさらなれない気がする。ハッピーリタイアメントという欧米的価値観もピンとこない。 少なくとも80歳くらいまでは、社会に必要とされる存在として働いていたいと思うし、社会との連動感こそが年齢を積むにつれて生きる糧となる気がしている。

そういう意味で、定年の無い世界への主体的移行は常なる課題であったわけである。

最初の20年を終え、今、60歳定年という区切りの無い仕事に移ったわけであるが、次の20年と3つ目の20年においての課題はより“天職”に近づくことだ、と思っている。

“天職”の定義は難しいが、祖父の80歳・90歳代が原イメージひとつである。

祖父は弓道の師範であった。世代が一回りも二回りも違う門下生に技を教え、代わりに彼らとの交流から常に刺激を受けていた。慣れ親しんだ得意なことでささやかながらも収入を得、若い世代に教え、社会と連動し、闊達とした生活をしているように見えた。本人がどう考えていたか不明であるが、私の目には“天職”をエンジョイしているように映っていた。(そんな祖父もその土台作りやらで60歳くらいまでは大変であったと聞いている。)

“天職”などというもの(状態)に行き着くまで、まだまだサバイバル状態でジタバタが続くと予想するし、キャリアドリフト期に再度突入することもあるだろう。が、折々のハプニングを楽しみつつ、緩やかな坂を駆け上るように、私は働いていきたいのだと思う。

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80歳まで働きたい私のような人間は例外としても、60歳という画一的な区切りに縛られないキャリアの仕組みを社会・個人の双方がもっと突き詰めて考える時に来ているのではないだろうか? そんなことをイオンの記事に触発されながら考える連休であった。

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セレンディピティ

 以前イギリス人とラグビーについて話していた時、 「何故我々はラグビーをするのかって? はずんだ楕円のボールが有利な方向に転がるかは五分五分。ただひたすら努力をする姿勢を神に示すしかない、全力でタックルをし、走り、前に進まねばならない。偶然を必然にする重要性を学ぶためにラグビーをしている。」と聞いたことがあります。そういった、紙一重を良い側に持ってくる力、そのために努力を惜しまぬ才をセレンディピティと呼んでいました。「偶然から何かを発見してしまう力」など、セレンディピティには色んな解釈がありますが、私はこのイギリス人の捉え方が気にいっています。

多くの候補者と話をしていると、キャリアへの考え方が千差万別であることを痛感します。ある方からは、キャリアのゴールを明確に定め(例えば「社長」)、その逆算で いついつまでにこのポジションにつき、よって次はxx業界で△△のポジションに就きたい、という風にキャリア全体をコントロール化に置き「デザインする」志向を強く感じます。

逆に、ある別の方はキャリアのゴールは設定せず、個々の会社では頑張っているものの全体として「ドリフト感」がキャリアの流れからは漂ってしまっていたり。(その実、お話をすると個々のキャリアキャラが「立って」おり、とてもお話が魅力的であったりも)

また、別の方は、キャリアの節目においては精一杯「デザインの意思」を以って努力するものの、日ごろは目の前にあるミッションにひたすら情熱をもって打ち込み、多くの「一皮むける」ご経験をされていたり。

キャリアパスに正解はなく、多様な生き様があって然るべき、と考えています。そして、キャリアの節目・十字路に立ち会うことが多い私のような立場の場合、どのようなキャリアパターンであっても、偶然を良い必然にしてしまえる能力、セレンディピティ感を候補者の方々が日ごろから研ぎ澄ませておられるかが鍵のひとつと思います。志をもってキャリアをデザインすることがそれをもたらすかもしれませんし、また意図せぬキャリアドリフトすら自身の才能開花・発掘につなげてしまうしなやかな逞しさも大事と思います。

不可欠のスパイスのように効いてくるセレンディピティ、勿論、我々コンサルタントの側にも必要であることは言うまでもありません。

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啐啄(そったく)の機

禅家の言葉に『啐啄の機』というものがあります。人材開発方面の方にとっては馴染みある比喩かもしれません。 雛鳥が卵の殻を中からつつく(啐)タイミングと親鳥が外からつつく(啄)タイミングがうまく合わさることで雛は世に出ることができる、という意味です。

そこからひいて、ヒトが育つ・一皮むける・ひとつ上の視点を獲得する、といった行為において、支援には「タイミング」が極めて重要であること、そして「支援し導く他者」の存在が必要であることが含意であろうかと。

内側の準備を無視して外側からつつき続ける(教える)だけでは、ただ殻が壊れるだけであり、内側からやみくもにつつき続けても外側がきづかなければ(殻の厚さにもよりますが)つつき疲れてしまうだけかもしれません。

親鳥・雛鳥、と書くと若手対象を想起してしまいますが、師匠・弟子と置き換えて例えばスーパー人事部長が本物のCHO(Chief Human Officer)に、スーパーエンジニア・研究者が経営視点に富んだCTOに脱皮していく上で、時機をとらえた他者からの支援が必要であることには経験的に違和感がないのではと思っています。その線でいくと、優秀な技術系事業部長がいきなり海外拠点長(工場長・法人トップ)になった際なども、経営視点をもったメンターの存在は不可欠と考えます。

昔の日本企業には、良い意味での「お節介」なヒトが社内にも沢山いてメンター代わりをしてくれていたように思います。時に厳父のように接し、時に慈母のように精神的支援を行ってくれるような人々。 同一人物の場合もあれば、別の人間がお父さん・お母さん役を担う場合も。それは社会の財産のようなメンタリティーであったと思います。そして、最近はそのような関係性が希薄になってきており、一人一人の職務が複雑化・肥大化傾向にある中、本質的なことを落ち着いて考える時間すら無くなってきているのでは、と危惧いたします。外部からのメンターサービスを提供して人の成長・組織発展に寄与したいと考えたのはこのあたりに原点があります。

 また逆に、成果を出せるビジネスマンというのは「能動的・本能的に」メンターとうまく出会い・関係を紡げる人、という言い換えができるかもしれません。ご自身で経験値をデザインできるという自律性にこそ特徴があるとも言えます。 内部メンター・外部メンター双方に違う意味合いがあるわけですが、ポジションが上がり・裁量が格段に広がるにつれ、より外部メンターの存在が重要になってくる傾向があると思います。(人によっては、ゴルフ人脈をとても上手に活用されておられます)

キャリアをデザインしていく上で、タイミング次第で同じ経験の量でも質の深さが全く違ってくることを「啐啄の機」はいつも思い出させてくれ、私にとっては欠かせない重要キーワードのひとつとなっています。

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自身の転職プロセス

私の場合、新卒で入社した会社に20年勤めた後で現コンサルタント業に転じました。長くいすぎたせいか、会社を辞める際には大変なエネルギーを使い、最後のジャンプにはいくつかの出来事(これは後日のブログで書きます)の背中押しが必要でしたが、底流として、長きに亘っての大きく太い流れに導かれてこの世界に入ってきたように思っています。

<大学時代>

私が初めてヘッドハントという言葉を知ったのは、80年代前半で、大学のゼミで日米貿易摩擦の勉強をしている時でした。日本からの洪水的輸出によってアメリカの繊維や自動車産業が大打撃を受け、失業してしまう人の怒りが政治的圧力として、日本車叩き・日本バッシングへと向かっていた時代です。自動車産業で職を失った人がそう簡単に産業越えで転職できたりしない様を当時はLabor Fluidity Distortion(流動性の歪み)という言葉で表していました。ただ、力のある人、モーバイルなスキルを持った人は「ヘッドハンター」という職業人によって、他の成長インダストリーに移っていったという事実も知りました。  ヘッドハントという言葉に動物的でネガな印象を受けましたが、成長産業に人がシフトしていく上でとても重要な役割を担っている「意味ある仕事」との印象を持ちました。今、できるかぎりは「より成長産業・国際競争力ある産業へリーダーシップを持った人がシフトしていく」「ことに貢献しようとしているベースはこの頃の影響があると思います。、

<ソニー、人事・採用担当時代>

80年代後半、勤務していた会社がコンピューター事業(EWS、NEWS)立上げに再チャレンジする際、自社内に育っていない人材をコンピューターインダストリーから採用する際にヘッドハンティングの手法を使いました。ビジネス立上げにおいて、適切な人材を如何にスピーディーに集めるかが決定的なポイントである、という原体験をその時にしたわけですが、企業側採用担当として、初めてヘッドハンターなる職業の方に会う貴重な経験もしました。物腰柔らかい、しかし業界への知見の高さ・プロフェッショナルな対応・態度に大変感心をしたことを覚えています。おかげで一旦は立上げに成功したわけですが、成功は長く続かず、立上げに貢献できる人材と安定成長に必要な人材は別物なのだ、ということも学びました。当時の人事時代同僚曰く「留岡さん、いつかヘッドハンターになって第二のソニーが育つのを人材面から貢献したい、とよく言ってましたね。」とのこと。本人的にも真剣に転職を検討したのですが、ただ、年齢も若く、実ビジネスの経験もないこと、日本ではまだ終身雇用カルチャーが強固であった事などから断念し、とどまって社内のビジネス部門への異動をしました。89年のことでした。

<香港・UK駐在時代>

90年代後半は香港に赴任し、中国ビジネスを大きく伸ばした後にアジア通貨危機に見舞われるなどアップダウンの激しいビジネスを経験する中、中華系人材の離合集散などを観察できました。また、00年代前半はB2Cの映像ビジネス(FLAT TV, PJ)立上げ担当としてUKに駐在し、欧州現地工場や欧州各国の販社に足繁く通っていました。 ビジネスを進める傍ら、外から日本を見る機会に恵まれた貴重な時期でした。

UKではロンドン近郊に住みました。ロンドンはやはり金融の街で、内外に多くの金融マンの知己を得ましたが、残念ながらアングロサクソン系やユダヤ系が幅を利かせていることを痛感し、日本はやはり「ものづくり」産業の国際競争力(加えての「サービス」産業)を磨いていくことが第一プライオリティーと確信した時代でもあります。 (現在の私がエグゼクティブサーチで製造業を中心とした分野を担当しているのはそれが理由です)

また、UK勤務当時の上司含め周囲にヘッドハントされてきた方が多く居たのですが、自身のコアスキルを確立した優秀な人が多く、そういった方々が、活躍できる環境を求めて動いていく欧州・香港の労働市場を目の当たりにし、日本も早くこのようにならねば、と思っていました(その裏方として活躍するエグゼクティブサーチコンサルタント達の層の厚さにも目を見張りました)。金融の自由化(ビックバン)、ものの移動の自由化、などは日本でも進みましたが、人材市場の流動化については、まだまだ改善すべきことが沢山あるな、と痛感。日本でも、40代、30代後半を中心に、リーダーシップや専門性を持った人が、もっと機動的に動けるようになれ、充実感あるビジネスライフがとぎれることなく続けられる仕組みが作られないものか、と真剣に考え始めていました。

<日本に戻って>

数年前に日本へ戻った時、下記のような点で危機感を持ったことを覚えています。

1.終身雇用神話が崩壊する中、個人は自らの立ち位置(マーケットバリュー)を確認し、企業間を移ってでも最適解を求めねばならない時代がすでに来ているにもかかわらず、その媒介手段(エージェント機能)がまだ脆弱。

2.以前に比して国産企業においてもピンポイントで外から人材を持ってくるカルチャーが広がり始めてはいるものの、例えば製造業においては韓国勢との競争に加え、本命としての中国・インド等との世界戦争の只中にいる割には、必要な人材が必要な企業・組織にまだまだシフトしていない、という状態。

そして、上記のような昔からの問題意識に気持ちが向かっていく自分と、20年間勤めてきた会社への愛着、“とどまって為すべきことはまだある”という気持ち、その他諸々の葛藤の中で、転職すべきかどうかを迷う日々が始まりました。

―――――PartⅡに続く

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大澤佳雄さん 「リーダーを育てるには、戦いの場に出し、責任をもたせること」 

グローバルインタビューシリーズの第二回は大澤佳雄さん。IBJインターナショナル(ロンドン興銀)の社長、みずほ証券の社長などを歴任された方です。国際経営者協会でお話を聞いて以来すっかりファンになり、今回のインタビューをお願いしたところ、ご快諾をいただき、インタビューが実現しました。

大澤佳雄(おおさわ・よしお)さんプロフィール

株式会社許斐・取締役会長。学習院大学政経学部卒。
IBJインターナショナル(ロンドン興銀)社長、日本興業銀行取締役証券業務部長、同常務取締役(証券業務、国際業務管掌)を経て、興銀証券副社長、みずほ証券社長を歴任。 IBJインターナショナルplc.(ロンドン興銀)在任中にはSecurities and Futures Association, International Primary Market Association, Euro Clear などのボードに参画、みずほ証券在任中には日本証券業協会理事、東京証券取引所自主規制委員会委員長などを歴任。
現在、日本水産取締役、YKK監査役、日本投資環境研究所顧問、日本産業パートナーズ特別顧問。
2007年6月に株式会社許斐の顧問となり、同9月会長に就任。

(以上、株式会社許斐ホームページより)

自己確立が大事

――私自身(留岡)の問題意識として、「内需だけでは日本はやっていけない」ということがあり、どうしたらグローバル化を進めグローバル人材を輩出できるのかということを常に考えています。それでまず、グローバル・リーダーはどういう条件で育つのかといったあたりからお話を伺えればと思います。

自己確立している人、つまり人間社会の中で自分がどのような役割を持っているかの自覚をもつことが、グローバルな仕事をやる人には必須の要件ではないかと思います。日本でやってきた業務面でのスキルは当然必要ですが、それ以上に人種を超えて人を引っ張っていくことに挑戦する覚悟ができている人が行くと、海外でうまくいくことが多いと言えます。そして、仕事の上でも人間関係の作り方においても自分自身の軸が確立していることが大切ですが、同時にもう一度現地に行ってしかるべき新しい業務環境の中で自分のポジショニングをつくり直すというくらいの度量を持っていることも大事です。

 逆に、海外現地法人などの社長に任命されて、自分というもののメリット、デメリット(バリュー)に自覚がないまま、英語でいうナイーブとかイノセントに振る舞ってしまうと、社長としての自分という適切なポジショニングができずに、国内で成功し嘱目されていた人がボロボロになって帰ってくるというケースがかなりあります。日本でいう年功序列や、会社の中のヒエラルキーといったものは、外へいくとほとんど意味を持たないといって良いでしょう。「俺は社長だ」と威張っても、みんな頭を下げるわけではなくて、自分たちにとって役に立つ人であるかどうかで判断されます。

 

――自分の軸があると同時に、それを現地でつくり直すくらいの気構えでいくわけですね。現地では、これまでの常識が通用しない。

 文化の多様性、民族の多様性に、日本ではある種の偏見をもつような教育をされるし、もっといえば、日本のいろいろな書物を読んでアジアに行けば、なんとなくアジア諸国の人たちを見下すような感じになってしまう。そのような自分がこれまで育ってきた教育やキャリアの呪縛から一度自分を解き放って、「本当のところは何なんだ」と勉強し直すような探求心をもった人がうまくいくのではないかという気がします。

――大澤さんご自身の海外でのご経験について教えていただけますか。日本興業銀行に入行されたのち、IBJインターナショナルの副社長としてロンドンに赴任されたのが海外勤務の最初でしょうか。

その前に、3カ月間だけトレーニーで行ったことがありますが、本格的に赴任したのは38歳のときで、IBJインターナショナルの副社長としてロンドンに行きました(1979―1983年)。当時はまだ30人くらいの規模でしたが、1988年に同社の社長として赴任したときには、ジャパンマネーで大きくなって、300人くらいの会社になっていました(~1993年)。それらの海外経験を通じて学んだのですが、海外で仕事するときに何がいちばん大事かというと、昔の言葉でいえば、裃を脱いで組織作りを一からやるということだと思うんですよね。

――組織作りを一からというのは、実際にどのようになさったのですか。

 

IBJインターナショナルの社長になったとき、私自身の下にそれぞれの営業フロント業務を担当するディレクターが複数いたのですが、一人を除いて日本人だったのを、すべて外国人に替えました。

新しい体制では英国人、ロシア系フランス人、イラク人、ドイツ人、オランダ人そしてアメリカ人と、ディレクターの国籍がみんな違いました。

――それこそダイバーシティですね。当然本社とのコンフリクトは起きますよね。横やりは入りませんでしたか。

まず、前任のディレクターだった日本人たちに、「うちの会社がこれから先もう一歩、二歩伸びて、現地でもちゃんとした会社になるためには現地人に任せることが必要だよね」と言って、その人たちには納得してもらいました。ところが、本社から見れば「とんでもない」という話になる。本社からの指示が伝わらないことから始まって人種的な偏見まで、いろいろなごたごたも起きました。私自身は、興銀のような大きな組織にても、若い頃から人がやらない新しい分野の仕事をもっぱらやってきたということもあって、新しい仕事に相応しい組織をどう作っていくかには、それなりの流儀が確立していたようにも思います。「ここのトップに指名したんだから、俺にまかせろよ」と(笑)。指名されたトップがミッションを果たすこと、それが大きな軸なのではないでしょうか。

それまでのIBJインターナショナルは日本の出先であって、ロンドンのインベストメントバンクとしてのIBJインターナショナルではなかったわけです。ロンドンのシティにあるIBJインターナショナルとして、クライアントからちゃんと頼られる会社になるかどうか、新しい体制作りの応援団はクライアントだけなんですよ。会社というのは誰に食べさせてもらっているかというと、本社でも現地の幹部でもない。クライアントに食べさせてもらっているわけです。そういう人たちが望んでいる体制を作ると言えば、これはもう誰にも文句は言えない。

 

◆「日本」を意識する?しない?

――どちらを向いて仕事するか、つまり、本社を向いて仕事をするか、現地のお客さんに向かって仕事をするか、ということですね。

解は本当に簡単なことです。ただ、そういうときに、お客さんが言っていることがちゃんと聞こえるような自らの穴を空けるということも大事なんです。ときに「お客さんのことは、あなたは手を触れないで下さい。私に任して下さい」と、現地人のボスみたいな人が邪魔をすることがありますから。

――お客さんからの声が聞こえるようにする、ということと共に、社内での情報チャネルをしっかりもっておくということも、海外では特に大事です。

社内の情報に関しても、何かあったときに、組織の正式のルートからくる報告を待てばいいだろう、と思っているととんでもないことになります。ロンドンで何度も失敗や事故が起きましたが、ラインにいる直属の部下や日本人の副社長から報告がくるのはだいたい2、3日後でした。「大澤さん、まだちょっとご報告していませんでしたけれど」と言うから、「ああ、一昨日の話か」と(笑)。

正式な組織のチャネルも大事だけれど、こと悪い情報に関しては、リーダーはまったく別のチャネルを持っていないといけません。

――話は少し変わりますが、大澤さんご自身は、海外にいるときも、「日本のために」ということを意識されることはありますか。

「日本」をどうするかということは、選挙民としては大いに興味があるけれど(笑)。現在、たとえば任天堂やソニー等々の多くの大企業では売り上げや収益の過半、企業によっては7割、8割が、海外から得られています。こういう時代に、日本の国益とは何を意味するのでしょうか。日本の国益と派遣された国の国益とは当然ちがう。だから、そういう矮小なことを考えないで、こと事業を遂行していく場合には「世界市民として」と考えた方がいい。

先にIBJインターナショナルのディレクターを日本人から外国人に替えた、というお話をしましたが、そうなってくると、日本のための日本の会社と思っていると、すぐに限界に突き当たってしまうのではないでしょうか。

 

製造業のグローバル化と金融業のグローバル化

――今日お聞きしたいことの一つは、製造業のグローバル化と金融業のグローバル化の違いなのですが、今伺った、「顧客に価値を提供する」というところは共通ですよね。それを前提とした上で、金融の世界でのグローバル化と製造業の世界でのグローバル化とで、もし質の違う部分があるとしたら、どんな点が違うのかということを教えていただきたいのですが。

製造業のグローバル化と金融業のグローバル化は、実はそれほど大きな違いはありません。むしろ、昔の金融と今の金融の違いのほうが大きい。東京勤務の頃(1980年代)に、銀行のプロダクツとサービスを引っさげてカナダ、オーストラリア、ヨーロッパなどのドサ周りをやりました。興銀が買ってもらいたいプロダクツを一生懸命営業して回ったのだけれど、当時は、何十回通ってもほとんどふりむいてくれませんでした。

ところが、プラザ合意(1985年)のあと金融(資本)の自由化が進み、いわゆるプロダクツ・ポートフォリオ(金融商品の品揃え)が大幅に増えました。それで、「このお客さんにはこれだよね」というのをお客様のニーズにあわせて持って行ったら、一度で商談成立ということになりました。そのころロンドン支店長だった人が大喜びして、「やはりマルチプロダクツのIBJインターナショナルを作ったおかげだ」と喜んでいました。

製造業も、まったく同じことだと思うんですよ。プロダクツ・アウトで、日本のスペックで物を売ろうとしても、たとえば現地のお客さんには高すぎて買えないということがある。一方、たとえば携帯電話で、「中国のお客さんが買うのは5万円くらいのものだろう」と思っていたら、実はデザインのよい10万円の機種が即日完売だった、という話がある。本社の頭で勝手に解釈していてはだめなんですよ。先の金融のプロダクツと同じで、現地で、「この人は何を欲しがっているんだろう」というのを見極めて、それをマーケット・インで持っていく。そういう点では、製造業も金融もそれほど違いません。

 

この15年、20年で金融の世界に起きたこと

 

ただ、ここ15年、20年の世界の金融というのは、いろいろな意味で間違いをおかして、その結果、サブプライムの問題やリーマン・ショックが起きたということがあります。

――具体的にどのような部分が間違いだったのでしょうか。最近もアメリカで、金融の規制強化がされることになりましたが。

最近新聞などで報道されている金融制度の見直し、再規制は当然のことと思います。

金融業界の収益の構造は、90年以降に大きく変わってしまいました。それまで金融業というのは、いわゆる利鞘やフィー、コミッションで稼ぐビジネスでした。しかし、90年代以降に、欧米の投資銀行やメガバンクは皆、世の中の動き、相場のうねりをみて自分でキャピタルにレバレッジをかけて、自ら相場を張って、自分が投資家になってしまった。

サブプライムの問題についても、最初は、錬金術みたいなストラクチャー商品をつくってお客さんに売っていたわけですがそのうちに、これを手持ちにしているとずいぶんサヤが抜けるねとか、インカムゲインがあるね、ということで、在庫を大量にかかえてきた。この在庫資金の調達ができなくなって今回の金融危機が起こったわけです。

90年代以降、金融業は自分のキャピタルにレバレッジをかけて相場を張ることによって、粗利の8割、9割を生み出すようになった。それで、汗水たらして発行引き受けや債券の売買、エクイティの売買をやっても、これらの手数料収入は、せいぜい全体の15%くらいにしかならなくなったわけです。そして、この自己売買による85%の収益が、ほとんどそれを担当しているプロッフェッショナルといわれる人たちのポケットに入ってしまった。

やはり金融の原点というのは利鞘とフィーではないでしょうか。お客さんが借りてくれる、お客さんが売買してくれることが原点であり、そこに一番社会的なバリューがある。しかし、90年代以降は、インベストメントバンクがこぞって上場を果たし、収益追求の体質が定着し、しかも金融の自由化が火に油を注ぐ結果となって、業態を超えた金融機関同士の大競争時代が始まったわけです。この20年は世界的な金余り現象が加速して、もうけのオポチュニティが圧倒的に市場にあったので、みんなそちらに雪崩を打っていったということではないかと考えています。

私がロンドンにいた88年~93年頃というのは、まだまだ及び腰でポジションを張っていた頃ですが、そこからあとは、すべての大手銀行、すべての大手投資銀行が、賭博場に集まって商売をしていたようなものです。

 

――私(留岡)はその頃、香港のソニーにいて、テリトリーがアジア全部でした。ところが97年にタイで通貨危機が発生して、韓国などの代理店が資金ショートを起こして、バッタバッタとつぶれた。あのときに私が感じたのは、「こういうときこそ、お金を貸してほしい」ということでした。

そういうときに、ちゃんとお金を貸せるだけのリスクテイク力をもてるようにということで、資本金規制ができたのだけれど、普段はそのお金は使われないで眠っている。それなら、これにレバレッジをかけて相場を張った方が良いじゃないかということになって、みんなそちらに傾斜してしまい、サブプライム危機のようなことが起きてしまった。

――香港時代には、その97年のときに資金ショートでたくさんの代理店がつぶれて、それをリカバーするのに数年かかりました。新陳代謝という意味ではよかったのですが。

金融というのは、結果としてゾンビを振り落としていくという機能があるので、その機能は全面的に否定されるわけではないけれど、金融危機のときに一番先にお金がなくなったのが世界一の銀行シティ・バンクだったということでは、誰を頼りにすればいいんだということになる。

このように金融は20年前と今とで全く変わってしまっています。ただ、ご存じのように今、グローバリゼーションからリージョナリゼーション、地域主義が出てきている。EUはこうだ、南北アメリカはこうだという具合に、だんだん地域の利害が一致してきて、それを主張するようになる。そうなってきている現在、もういちどメーカーと同じような目線で、その地域の金融を応援しないといけない。その地域にどんなニーズがあって、どういう仕事をすれば、ちゃんと自らのキャッシュフローで拠点を運営できるかを考えていくということなのではないかと思います。

◆社長の役割は「ノー」ということ

――90年代の金融業界の大きな変化について伺いましたが、このような中で個人が、自分なりの矜恃をもちながらやっていくということはできるのでしょうか。自己確立ということとも関係すると思いますが、大澤さんご自身はどのような矜恃あるいは信念をもちながら仕事をなさっていたのでしょうか。

少しあとの時代、つまり興銀証券、みずほ証券の運営していたときに、私はこうした信念をもちました。かつての金融機関というのは、ソニーや東芝、パナソニックといった資金調達者である企業がお客さんで、投資家というのは正面のお客さんだとは思っていませんでした。投資家というのはある条件で発行された債券やエクイティ(株式)を買う人ということで、販売業務のことを「ディストリビューション(配る)」という言い方をしていた。93年に興銀証券ができたときに過当競争の中で何を以って新しい会社の存在意義を主張できるかとして考えたのが、投資家を正面のお客さんとして大事にする会社にしようということでした。日本興業銀行というのは、もっぱら資金調達者(企業)をお客様と思っている銀行でしたから、こっちは投資家を大事にする証券会社にしようじゃないかと。

それで資金調達者には、「投資家はあなたの会社をこう判断しています」と伝えることにしました。そのころは、格付けなどはまだ普及していませんでした。だから、たとえばソニー、パナソニックとサンヨーで、資金調達コストに差をつけるというようなことは許されなかった。電機業界だったらみんな一緒とか、鉄鋼業界だったら一番でも五番でも同じ条件ということが当たり前でした。それを、「投資家は御社をそう見ていません。御社の財務体質だと、これだけ余計にはらってもらいたい」と伝えるようにしました。それが6、7年経ったら当たり前のことになりましたが。

興銀証券ができて4年くらい経った97年頃から、銀行が「貸しはがし」をやり始めます。それで、企業が銀行からお金を調達できなくなったときに、「それでは、債券(社債)を出してあげましょう。ただし、投資家はこういう条件と言っていますから」と、その条件を呑んでもらうようにしました。それまでは、社債の発行というのは、日本全体で年間で1兆円規模だったのが、97年は10兆円くらいになりました。

そのときに、証券大手4社が、総会屋への利益供与でペナルティ・ボックスに入っているものだから、新規参入であるわれわれ興銀証券が新しいプライシングの手法を持ち込んでも、どんどん仕事がまわってきたということがありました。

みずほ証券の社長時代には、サブプライムのようなストラクチャー商品で相場を張っていた人に、全部ポジションをクローズさせて、という荒療治をやりました。持ち株会社からはずいぶん収益へのプレッシャーは掛かっていましたが(笑)

――そこに矜恃があるわけですね。

社長しか「ノー」と言えません。部下はみんな、「これはもうかりますよ。こういうオポチュニティがあるからこれだけ相場を張りましょう」みたいに言うけれど、「それはダメだ」と。社長は、「イエス」と言うことより「ノー」と言うほうが大事です。サブプライム問題で、世界の大手の金融グループのうち二つだけがあまり傷ついていない。その原因は、その二行のトップが、先行き不透明なストラクチャー商品のポジションを手仕舞いましょうと言ったということがある。「ノー」と言うことは、絶対にリーダーシップが果たさなければならない役割です。

 

リーダーは勉強しないといけない

――いま日本において、「リーダーが欠乏してきている」と言われています。それで、リーダーをどうやって育成するか、という議論が出てくるわけですが、大澤さんのそのあたりのお考えをお聞きしたいと思います。私もいろんなところで、このことは聞かれますので。

リーダーは勉強しないといけません。スキルを勉強するのでなくて、世界の流れを勉強しないといけない。「明日相場がどうなるか」というのはディーラーの仕事であって、リーダーの仕事ではありません。リーダーは半年先、3年先を見、5年先を見る。そういうことのために、世界のgeopolitics(地政学)から始まって、いまでいえばお金の流れや、消費の流れなどを勉強していかないといけない。私はときどき中国に行きますが、中国人は政府の官僚から大学教授、学生に至るまで、日本人の10倍くらい勉強しています。過去の歴史、とくに失敗の歴史をよく勉強している。

ハーバード流というのか、スタンフォード流というのか、リーダーシップについてMBAなどでは科学的に分析しようとしていますが、ああいう種類のことだけでは、リーダーシップというのは育たないと私は思います。教科書のチェックボックスに印をつけながら、「俺はこれだけやっているから、リーダーとして安心だ」などということはありません。

リーダーは、世の中の流れを知らないといけない。リーダーというのは、言い方を変えれば、戦争のときの大将であるわけで、大将としてちゃんと勝てるかということなんですよね。まず、敵の戦力を測るということから始まって戦況をきちんと見られるかが問題です。多くの戦争は、自然条件の変化によっても失敗しています。ナポレオンがロシア遠征で“冬将軍”と呼ばれる厳しい気象条件で敗れたことはよく知られているとおりです。それは何を意味するかというと、「相手」だけを見ていればいいということでなくて、自然環境つまり地形はもちろん季節の変化まで全部戦略に入れて戦うということ。人間が組織をつくって何かをやろうとするときに、どういうファクターが一番影響するのかというところにまで、きちんと自分の目が行きとどいているかどうか。そのために、勉強をしないといけない。

――リーダーは、俯瞰する視点を持たないといけないということでしょうか。

そうです。「お客さんのところに社長が行くと、大型商談ができるから」なんて言う人がいても、私は聞きませんでした(笑)。部下はおうおうにして、リーダーの使い方を間違っています。「社長も行ったけれど、だめでした」と失敗したときの言い訳にするために、社長を商談に引っ張り出したりする。

そうではなくて、社長というのは、戦争をどういうタイミングでしかけるかというような大きな判断をする人であるので、ヒマにしておいてもらわないと困るわけです。やはりリーダーにとって一番大事なのは即決できるかどうかで、「ノー」と言うのでも、「ちょっと一晩考えるから」なんて言っている余裕はない。なぜ即決できるかというと、日頃から勉強していて、戦況を高いところから眺められているからです。

グローバル・リーダーには何が必要か

 

――リーダーに必要なのは勉強することであり、資質としては俯瞰できること・即決できること、と言えそうですね。グローバル・リーダーということだと、それに加えて何が必要でしょう。

いまグローバル・リーダーとして何が必要かというと、収益が8割海外から来ているのだったら、社長たるものは8割の時間は海外を見ておかないといけない。ところが、経団連の会合があるからとか、取締役会、株主総会があるから等々、なにしろ出不精の人が多い。

――日本企業で、海外部門は海外担当取締役に任せている、という例も見受けられます。グローバルはこの人に任せたから、ということでは、やはりまずいということでしょうか。

海外担当取締役が俺のボスだ、とはみんな思っていません。会社の最終決定権は社長にあるとみんな思っていて、社長を見て仕事をしています。ナンバー2以下というのは、みんなリーダーに責任をヘッジできるから、高みに立った視点でものを見ていません。高みに立ったリーダーというのは、必ずそこのところを満足させるだけの知見と決断力をもっていないといけない。

海外担当が8割の時間、海外に出ているのなら、百歩譲って社長は3割でもいいけれど、3割というのは、1年の3カ月以上外にいないといけないということで、これでも日本人にとってはけっこうたいへんです。でも、欧米の会社にとってはそれが当たり前で、社長がいつも本社にいるというようなことはあり得ない。

――日系企業のいまの状況は、海外売上げが国内より多くなっているにもかかわらず、トップマネジメントが海外を向いていません。いま起こっている問題のひとつは、現地の拠点で雇ったローカル社員がいつかないということです。本社の海外担当に意思決定をうながしても、なかなか決定してもらえない、それで失望して辞めるという問題が頻繁に起こっています。日系のグローバル企業の人事の方とお話をすると、そこに話がいきつくことが多いのです。この問題に対してどうしたらよいのか、ということを最近考えているのですが。

これはやはり、現地のローカル社員を本社の役員にするという、昇進のしくみをきちんとつくる。わかりやすい例でいうと、ソニーのストリンガーさんは、米国法人の会長を経て、本社の社長になりましたね。この間辞任してしまいましたが、日本板硝子の社長に、子会社である英国ピルキントンの社長が昇進したというケースもありました。こういうしくみを多くの会社がつくるべきです。

というのは、リーダーを育てるには、現場を踏ませることがやはり大事だからです。アメリカの会社というのは、ブランチ(支店)というのはなくて、全部独立したオペレーションの会社になっていて、それぞれ社長がいる。そこで社長を務めた人が、本社のディレクターになることもあるし、野戦に強い人はそのままそこの社長で終わり。退職金を沢山渡して「さようなら」という場合もある。そういうルートが日系企業にもできて、それが明示されていれば、有能なローカル社員が途中で辞めるはずがない。ミッションをはっきりさせて、昇進のしくみをきっちり作ることが肝心です。

――いま日本企業は人数が過剰で、日本人社員にとっても、ポジションがないということで、閉塞感がありますよね。そのなかで、海外赴任や、子会社の社長という形での抜擢というのは大事だと思っています。そこでタフ・アサイメントを乗り越えていく。そういうステップで社長までいく。そのようなキャリアパスがとても大事だと思っています。

 

その通りですね。リーダーを育てるというのは、戦いの場に出し、責任をもたせる、ということしかありません。海外でタフ・アサイメントを乗り越えて来た人、そういうキャリアパスを通ってきた人をきちんと昇進させるということがいちばん大事で、それは海外人材の本社登用と両輪です。

「アカウンタビリティ」とはみんなの前でいうこと

――先ほど出た、「ミッションをはっきりさせる」ということに関係する話ですが、日本企業では、ポジションは言われても、ミッションははっきり伝えられない、ということがありますよね。

そのとおりです。日本企業では、「シンガポールに行ってこい」とは言っても、「何をやってこい」とは言わない。「お前、シンガポールの社長にするから」と言われて、「かしこまりました」で終わってしまう(笑)。海外企業であれば、CEOは「シンガポールがいまこういう状態で、俺はこういうことに満足していないから、お前を派遣するんだ」という言い方をします。それと同じことを、日本企業が外国人に対して行っていますか。社長の背中を見て育てよ、なんて言ったって、海外の人は、背中なんか見ても学習しませんから(笑)。

――言語が違う分、よけいにきっちり言葉にして伝えないといけないわけですね。

ミッションを伝えるときに、もう一つ大事なのは、本人にだけ言うのでなくて、みんなに伝えるということです。たとえば、ある人を部長に指名したときに、みんなの前で「この人には部長としてこういうミッションを与えたから、みんな一生懸命サポートしてくれ」ということを言わないといけない。本人だけ別室に呼んで、「こんどお前を部長にしてやるから」と伝えて、その人が帰ってきて「おい、部長になっちゃったぞ」と言っても、下の人はサポートしません。

みんなの前で「社長の私が決めた」と言わない限り、だめなんですよね。最近、「アカウンタビリティ」という言葉が流行っていて、説明責任と訳されているけれど、別室で説明してもだめなのです。パブリックリーにみんなの前で説明してはじめて、アカウンタビリティが達成される。

 

人の心の機微がわかること

 

――大澤さんご自身は、新しいポジションを提示される度に、ミッションを与えられてきたという感じでしょうか。

私は、「お前これ任せたよ」というようなことは、実は一切言われたことがないのです。あとから見てみれば、付託に応えた、というように見えるのかもしれませんが。

――外部から言われてというより、最初のお話にあったように、自分の軸を常にもっていたという感じでしょうか。

自分が何かやっているときに、気負うことはまったくありませんでした。IBJインターナショナルの社長になったときにも、興銀証券、みずほ証券の社長になったときにも、自分で心に誓ったのは、「仕事をしている人がワクワクする会社にしよう」ということでした。実際、IBJインターナショナルでは、中途採用して主要ポジションにつけた人が入社して3カ月経った頃に、「会社にくるのがこれほどワクワクすることはいままでにない。土日だって、来週何をしようかと考えるようになった」と言ってきてくれたことがあります。

――すばらしいですね。

 

一つの部署で何かあると、違った部署の人もそこに集まって議論に参加する。「何か起こっているぞ」と集まってくる。それが本当に面白かった。

――そういう空気をつくるコツというか秘訣は、何かあるのでしょうか。

現場に僕が降りていく。今、暇そうだなと思うと現場に降りていって、いちばん暇そうにしている人を、後ろから羽交い締めにしたりする(笑)。

――かつてはソニーでも、井深さんや盛田さんが、気がつくと自分の後ろに立っていた、なんていうエピソードがありました。これはソニーにいる僕の友人から聞いた話なのですが、彼はビデオのデッキのドラムという、テープの巻き付く回転部分の設計を担当していた。どうやったらできるだけなめらかに巻き付けられるか、ということをやっていて、あるときふと気がつくと井深さんが立っている。そして井深さんがそのドラムを手にして、ペロリとなめて、「うん、これはなめらかだ」と言ってくれたという。彼はそれに感激して、その後、火の玉のごとく設計にいそしみました。トップのそういう姿勢が、現場にとっては何よりの励ましになります。

私が現場をまわっていたというのは、もう一つ意味があります。取引で損を出している人というのは、目を伏せるのです。自分が稼ごうと思って買ったものの値段が下がっていると、私が来ると目を伏せる。そういうときは、あとで部屋に戻ってから、その目を伏せていた人の隣の席の人に電話して、「隣が目を伏せているけど、だいじょうぶか」。「大澤さん、実は彼は損をしているんですよ」。それでそのあと、「お前、心配するな」と、背中を叩きに行って、しこったポジション損切りの指示をする。ほっとした顔を見るのもトップ冥利に尽きるということでしょうか。

――そういう、人の心の機微がわかることというのも、リーダーには大切な資質ですね。

人の心の機微がわからないと、鬆の入ったような報告書をもらっても、真実とほど遠かったりしますので。

――最後に、メンター制度について伺いたいのですが、社内だと言えない悩みも、外部のメンターになら言えるということがあります。日本の良いところのひとつに、師範と弟子の1対1の関係のような濃密なあり方があるので、それを外部メンター制という形で、企業に提案できないかなと思っているのですが。

私自身はそれまで自社内で誰もやったことのない仕事をやってきたということもあって、仕事を教えてもらったのは興銀内部の人でなくて、証券会社の人、つまり外部の人でした。しかし本当に難しい仕事に立ち向かったときに、ストレスが高じて自律神経失調症に罹ってしまいましたので、そんなときにメンターがいれば、どれほど救われたかとは思いますね。

メンターということではありませんが、宴席などで謦咳に接した他社の社長たちの生き様を見たということが、私にとっては勉強になりました。それを仕組みのなかでやっていくとしたら、外部メンター制度ということになるのかもしれませんね。

英国の経営学者チャールズ・ハンディは多くの経営者のメンターをやっている方ですが、彼の著書『The Hungry Spirit』という本に、「proper selfishness」という言葉がありますが、自己(適正な自我)確立した方で、私心なくメンターをやってくれる人がいるかどうかがポイントでしょうね。

(収録・2010年1月27日)

カテゴリー: interview | 大澤佳雄さん 「リーダーを育てるには、戦いの場に出し、責任をもたせること」  はコメントを受け付けていません

鶴見道昭さん「道なき道を行く。その面白さを若い人に伝えたい」

鶴見道昭さんは、僕(留岡)がソニーヨーロッパ(ロンドン)に駐在していた頃に同社の社長をされていた方です。現在もロンドンにお住まいです。僕がソニーを辞めた後もご指導をいただく機会が何度もあり、グローバルインタビューシリーズの第一回は、東京出張中の鶴見さんにお願いすることにしました。

鶴見道昭(Michiaki “Mike” Tsurumi)さんプロフィール

Across Associates パートナー/コンサルタント。Deloitte 社外コンサルタント。

1964年慶應義塾大学法学部法律学科卒。ソニー入社 2年後にソニーアメリカ赴任。以後北米19年、欧州12年新規ビジネス開拓、顧客本位のマネジメント、チャンネルマーケティングから販売会社の経営一般を広く担当し2001年本社常務取締役。2002年には欧州ソニー社長として構造改革とビジネ スの拡大に取り組んだ。また製造業以外にも放送事業、インターネット事業の経験もある。ブランドの確立、競争と成長戦略、異文化環境下の経営、業務用と一 般民生用ビジネスなど幅広い経験で現在は数社のイギリス、アメリカ系の会社のボードメンバーやアドバイザーとして活動。また大学生のインターンシップを通じて自己啓発をする世界的団体アイセックのアドバイザリーグループのメンバーとして学生のコーチングも行っている。

◆ソニーアメリカに投げ込まれる

――ソニーに入社されて2年後の1966年にはソニーアメリカに赴任されていますが、海外勤務は入社のときから予想されていたのでしょうか。

僕の家庭は親父が外交官で、兄弟はみな海外で生まれています。すぐ上が11歳離れていますが、そうした年上の兄弟たちが、僕が子供の頃に家でよく外国の話をしていました。それを聞きながら育ったので、海外への関心はもともと強いほうでした。「俺も外に出てやってみようか」と思っていたので、入社前にも海外希望は伝えていました。それが早いタイミングでかなえられたといえます。

――では、ソニーアメリカ赴任は願ったりかなったり、ですね。

でも、「ぜひ行ってこい」と送り出されて、アメリカ(ニューヨーク)に着いたら、「お前何しにきた」みたいな話で(笑)。よくあることなんですが、当時は「ポジションがクリアで、やることが予め決まっている」というわけでは全然なくて、「一人くらいこっちによこしてよ」みたいなオファーだった。それで赴任したら、「盛田さんが来たから空港に迎えに行って」とか、「テレックスでこれ打って、本社とのコミュニケーションやってよ」等々。要するに雑用係です。当時は日本人の数が20人くらいでした。現地の人(アメリカ人)も20名くらい。よき時代です。

 

――「雑用」から始まって、どのような仕事にシフトされたのでしょうか。

メインでかかわったのは、業務用ビデオです。家庭用ビデオが1970年代に出来る前に、すでに60年代にVTRは技術的に出来ていて、まず業務用として販売が開始されました。私はそのビジネスにかかわり始め、買い付けから、セールスから、宣伝広告まで、何でもやりました。

一般的に、業務用の高い機械をコンシューマー系に落としていく、というのが市場の一つの流れなのですが、VTRでも最初のお客さんは放送局でした。NHKが相撲をビデオにとって、もう一回流す。もう一回見られるんだと、最初はみんな驚いたものです。その後、どんどん機械を小さくして、家庭用にして、70年代にコンシューマー用の幕が開いたわけですが、私はその後もずっと業務用を担当しました。放送局のほか、学校や企業がお客さんでした。コンテンツづくりにも関わりました。マグロウヒルなどの教科書系の出版社が、それまで16ミリのフィルムで作っていた教材をビデオ化することになり、それにも関わりました。映画会社と交渉して、映画をビデオ化することも始めました。

 

――コンテンツ・ビジネスも含めて、業務用ビデオ・ビジネスに相当深くかかわられたわけですね。

放送局で使うビデオは、最初は大きなものでしたが、それがだんだん小さくなって、取材に使われるようになりました。取材でも、もともとは16ミリフィルムで撮影していました。フィルムだと現像する時間がかかりますが、ビデオだと撮影してすぐに流すことができます。

今では歴史的な事件として教科書にも書かれていますが、72年にニクソン大統領が、当時国交のなかった中国を電撃訪問するということがあり(ニクソン訪中)、CBSがこのときの画像をVTRで流します。それはソニーとCBSが共同で開発したビデオカメラで撮られた映像であり、以後、他の放送局もソニー製のビデオを競って使うようになりました。

このときのニューヨーク赴任は7年であり、その後サンフランシスコ支店に2年出ます。そのときは、ビデオだけでなくてコンシューマー(民生)用の商品も全部扱いました。以降も、メインは業務用のビデオ、そしてカメラ、モニターなどのビデオまわりのシステム全般で、いわゆるB to B系でした。

サンフランシスコの2年のあと、カナダに4年、またニューヨークにもどってきて4年、そこまでで北米に17年です。そのあと日本に2年いて、またアメリカに2年。アメリカの最後の方は、肩書きとしてはシニア・バイス・プレジデントやバイス・プレジデントでしたが、やはり業務用ビデオの全体を見るということが主要な仕事でした。

◆「火消し役」としてのヨーロッパ赴任

アメリカから戻って日本に4年いたのち、ヨーロッパ(ロンドン)に赴任します。45歳の頃です。業務用部門の全体を見ることを4年やり、日本に2年戻って、またロンドンへ。もう一度日本に戻り(2001年には本社常務)、それで終わりかと思ったら、再度ロンドンに戻されて、ソニーヨーロッパの社長になりました。それが2002年、60歳のときです。この時代に留岡さんとご一緒したわけです。

――この頃、業務用からコンシューマー用まで、販売だけでなく生産工場まで見られていましたよね。7つくらいの工場、ヨーロッパ中を見られていた。

ちょうどITバブルがはじけて、エレクトロニクス産業は具合の悪いときであり、ヨーロッパは2002年にユーロが流通し始めたこともあって、激変のときでした。全体的に調子が悪く、環境が大きく変わった時代でした。市場環境だけでなく、ソニーヨーロッパのオペレーションが荒れていて、「火消しで行ってくれ」というところもありました。

――日本企業のグローバル化のパターンとしては、最初は現地法人の社長を日本人がやり、そこからローカライズして現地の人が社長になる。今まだこの段階の企業も多いわけですが、ソニーの場合は、その段階を過ぎて、現地化しすぎていろいろなコンフリクトが起きた。そこに対してもういちど秩序をもたらすということで、鶴見さんが行っていろいろ整理された、という印象があります。 

 

グローバル化、現地化という課題に対して、どこの企業でも必ず問題が起こっているはずです。それに対して、私がやった方法というのは、「簡素化する」ということです。長い時間がたつと組織は肥大化したり、重複したり、複雑化する。そして、適材適所でないということが起きてくる。必ずしも適格でない人が上に上がっていったり、ファンクションを持っていたりということがあるので、グローバル化のなかで整理をしていかなければならない。これは浄化の一つのサイクルであり、それを何度か繰り返しながら企業は伸びていきます。

ソニーも1950年代の終わりからグローバル化しているので、何十年と経っているわけです。その時代時代にフィックスさせていかなければならない。家全体の立て替えはできないけれど、増築や改築をしなければなりません。それをやりながら、日本人も伸びていくことができます。

◆グローバルリーダーのコンピテンシー

――鶴見さんご自身は、グローバルリーダーのコンピテンシーとは何であるとお考えでしょうか。

市場環境が昔と今とではかなり変わってきています。企業経営も大分変わってきているので、昔のグローバルリーダーとはまた違うリーダーが求められてきているということがあります。

昔のグローバルリーダー、というのは具体的な人物イメージで言うと、井深大さんと盛田昭夫さんです。当時は日本がこれから成長するという時代ですから、クリエイティブなものをつくって、それを世界に提供していく、市場もこれからつくり、新しいエレクトロニクス産業、新しい日本をつくっていく。彼らにはそういうパッションもあるし、哲学もありました。

もう少し一般化して言えば、ビジョナリーであること、使命感があること、人を納得させる力や人を惹きつける力があること。人間の魅力度が高いということ。

今はそういう人が少ないように思いますが、それは今の人に能力がないということでなくて、時代的な要因が大きいと思います。明治維新のときや、戦後の荒廃した時代には、ビジョナリーな人、時代を引っ張る人が出やすい。そういう人がいる時代に、私も引っ張ってもらったと言えます。

今は分業化が進んでいて、リーダーシップに専門性が出てきています。欧米の場合は、「私は会社のトップになります」と最初からマネジメントに向かうグループがいる。日本の会社のトップというのは下積みからどんどん上がっていくので、それとは少し異なります。日本の場合は、悪く言うとサラリーマン的。根回しもうまいし、協調もできる。突飛なことを言って、みんなから「こいつ変なヤツだな」と言われるような人が社長になるケースは稀です。そこで求められるコンピテンシーは、調整能力だったり、人を使う能力だったり、持っているリソースを使いながら経営を伸ばしていく能力であることが多いです。

私自身は、グローバルリーダーのリーダーシップは、もうすこし原始的にもどった方が良いなという気がしています。

 

――原始的というのは。また、そうしたコンピテンシーはどういう環境、どういうキャリアで育つのでしょうか。

温室育ちではだめです。環境の変化の中につっこんで、そこに対応していくといった経験をさせることがどうしても必要になってきます。日本だけでなくて海外、海外も欧米だけでなくて、中国などアジアも経験させるとか、そういう中でリーダーを育てるというのが、昔も今も変わらないのではないかと思います。

ただ、今は、エレクトロニクスや自動車のような典型的なグローバル産業の成長力が非常に弱くなってきている、という構造的な問題があります。その一方で、それ以外の産業にはこれから伸びていく力があるのではないか、まさに新しいリーダーが、そういうところで育つチャンスがあるのではないかという気がしています。

ネガティブな言い方をしてしまうけれど、海外赴任をしても、何年か外でやって帰って本社の部長になります、役員になります、黒星はつけたくないという、サラリーマン的な考え方でやっているのではだめでしょうね。むしろ、外から見ると本社の悪いところも見えるのです。それを利用して、帰ったら大きな変革を自分でやってみよう、などと全く違った発想をしてほしい。いい機会ですから、これからの人にそこをやってほしいという気がします。

確固とした大企業で、ストラクチャーができている中でやればやるほど、型にはまったプロセスに入ってしまうので、それを打破する。違う産業につっこんでしまうとか、まったく違うところに環境を変えてしまう。異文化でもイスラム教の国に入れてしまうとか。そういう、次元の違うところに入れてしまう。

 

――ある意味で、乱暴なことをやったほうがいいと。

僕らは乱暴な時代にいたんですよ。何の努力もしないでも、けっこういろんなことをやらせてもらえました。道なき道を行く、新しい道を拓く、といったことがすごく面白くて、魅力的でした。ところが、今はそういうことはなくなってきているから、敢えてしないと駄目なんじゃないかという気がします。

 

――僕(留岡)がエグゼクティブ・サーチの仕事を選んだ動機の一つでもあるのですが、乱暴に環境変化をつくりだすことができると、そこから個人の潜在能力を引き出す何か生まれるのではないかと考えています。ただ実際は、そういうことを求める人はいるのですが、そうした人材を求める会社が少ない。乱暴なことを自ら望むような志の高い人が満足するレベルの会社が、かなり少なくなってしまっている。それで、僕は、才能を活かせるチャンスの場をデベロップメントをするのが仕事と思っています。

◆ダイバーシティ感覚=周波数の違いを聞き分ける

――グローバルリーダーと国内リーダーの違いをどんなふうに考えればよいのでしょうね。たとえば、ダイバーシティ(diversity、多様性)感覚の有無というのはその大きな要素になりますか。

国内でも共通しますが、まず、価値観を持っているかどうか、というのがリーダーの資質として大きいですね。それが、グローバルにも通用する価値観であるとして、その先は、コミュニケーションの能力だと思います。その価値観を皆さんにわかってもらう、世界にわかってもらう努力をする。その際に重要なのが、世界の人の考え方をどう採り入れてやっていくのかという、「感度の良さ」とでもいうべきものです。

よく、盛田さんがこんなふうにおっしゃっていました。「あなたたちは、自分の話が聞いてもらえないとか、自分の言っていることを理解してもらえないと言うけれど、それは、聞く側の人が何を聞きたいと思っているのかということがわかっていないから。つまり、チューニングがあっていない。ラジオだって、出す周波数と受ける周波数が一緒でないと聞こえないのと同じで、周波数があっていないんじゃないの」。

ダイバーシティ感覚がある、というのはつまり、「いろいろな周波数があるということがわかっている」ということだと思うのです。わかっているから、それぞれの周波数に合うようにメッセージを出していくことができる。盛田さんが英語がうまいとかそういうことではなくて、感度のアンテナが高い上に、いろいろな周波数があるということがよくわかっていて、チューニングがうまい。だから、聞いた人が盛田さんの話に納得するわけです。

――なるほど、ダイバーシティ感覚というのは、周波数のそれぞれの違いを聞き分けるということなんですね。国内リーダーの場合は、その能力はなかなか身につかない。

国内のリーダーだと、多くの場合、日本人の持っている共通の価値観にフォーカスしますから、国内にいれば、違う周波数を聞き分けよう、それに合わせよう、という苦労はしないですんでしまいます。だからそのへんの殻を破らないと、グローバルリーダーとしては難しいといえます。

 ダイバーシティというのは、人種、宗教の違いもありますし、ジェンダーの違いもあります。Chief Diversity Officer(CDO)というポジションを、一部のアメリカ企業などは置いています。彼らがやろうとしているのは、ダイバーシティを広く持つことによって、よりその企業を強くしようということ。なぜ強くなるのかというと、企業が多面性を持てば持つほど、お客さんのところにより感度良くメッセージを向けられるからです。女性をどうするか、ということも含めて、日本企業はまだそういう意識が弱いですよね。本当はそういうことへの感度が鈍い、日本こそがやらなくてはいけないんですが。

◆海外で「つらい目に遭う」ことの大切さ

――海外勤務で一皮むけ、その後、全社経営人材になるというケースがありますが、そのような“修羅場孵卵器”機能が、海外勤務にはあるととらえてよろしいでしょうか。

海外勤務の大きなメリットに、守備範囲が広がるということがあります。日本では、「私は管理だけやっていました」「セールスだけやっていました」という人でも、海外に出ると範囲が広がる。一般的に、日本よりオペレーションが小さいですから。守備範囲が広がれば広がるほど、経験値が増えていく。

たとえば、パナソニックの中村邦夫会長も、キヤノンの御手洗冨士夫会長も、現地法人のトップをされた経験をもっています。海外現地法人のトップというような全般を見る経験は、予行演習ではないけれど、ミニ社長のような経験になる。これは、ものすごく実践的なひとつのトレーニングです。

それから海外にいると、先ほど言ったような異文化、多様性を経験するとともに、日本本社そのものが見えてくる。日本本社の中にいるとわからないことが、外に出てくると、「これは、ちょっとおかしいな」と気づくようになる。そういうことがわかったうえで、経営者になっていったほうがいいでしょう。同じところで純粋培養されてしまうと、どうしても自分の世界が狭くなってしまう。

 

――純粋培養を避けるには、海外に出て、自分の会社を客観視できるようになったほうがよいと。

客観視できるようになる、ということもあるのですが、異文化経験など、いろいろな「つらい目」に遭うことには、非常に大きな学習効果があります。つらい目に遭うことは、自分の血となり肉となる。つらい経験をした人、そういうDNAを持った人たちを増やしていくということが、会社としても、実はとても大事なのです。表面上は目立たないかも知れないけれど、見えざる所に強さがでてくる。会社というのは売上規模や利益規模などでみんな判断しがちだけれど、そういう人たちがどれだけいるか、というのが強さの源泉なのです。

いま、韓国、中国、インドにそういうポテンシャルを持った人がたくさん出てきています。これは、表面上は数字に出てこないけれども、何年か経ってみたりすると、日本と大きな差になって出てくるという恐れがあります。

ですから単純に、「日本人に高いお金を使って現地に送り込むよりは、現地人でやったほうが安くできるし効率的だ」と考えたらだめでしょうね。

 

――最近海外勤務をされた方から伺ったのですが、最近は、本社が「やれシェアがどうだ」とか細かく言うようになってきて、仕事のうちの7割くらいは本社を向いて仕事をしているようになってきている、と言うんですね。本当は競合とマーケットを見て仕事をしないといけないのに。そういう反応が出てきているので心配しています。今おっしゃった、「つらい目に遭う」とか学習効果が大事なのに、つらい目というのは、「本社からのつらい目」だけ。

海外に赴任したからには、日本でやってきたことを解脱すること。本社がこう言っているからと、本社を向いて仕事をするようでは駄目なんですよね。いくら本社がぐちゃぐちゃ言っても、現地、そこでのお客さん、現場、そこの人たちを代表して、「だからこういうふうにしたいんだ」ということを、本社側にどんどんぶつけていく。

本社官僚が強くなるという傾向は、グローバル化の進展とともに出てくるでしょう。グローバル化が進めば進むほど、そういう組織形態をつくっておかないと、どんどん分裂してしまうんじゃないか、遠心力でコントロールが利かなくなるから、グリップを強くしたいと考えると思うんですよ。それはしょうがないのですが、それに打ち勝つだけの力をローカルで持っていないといけない。

立場が上になると本社に対しても言えるけれども、若い人だと言えない、考えられない、ということがあるから、そのへんはコーチングの役割だと思います。

――それを僕(留岡)も思っていまして、かつてのように海外で自由にならないので、精神的支援と成長支援にコーチングが入っていくと、より良いのではないかなと。本人に「サポートが必要だ」という自覚がある場合は、個人としてコーチを頼んでくるのですが、自覚がない場合も多いので、そういう場合は会社の人事担当者が、システムとしてコーチングを採り入れてくれれば、と思っています。ただ、最近人事の方と話していて、あまり「成長支援」を考えていないのでは、と思わざるをえないこともあります。風切り羽を抜いたくらいのフラミンゴにしておきたい、というような(笑)。

◆純粋培養は危険

――個人にとどまらず、これまでグローバルでなかった企業や産業も、グローバルに出て「つらい目に遭う」ことが、成長していくうえで必要なのかも知れませんね。

一つの問題は、国内で成功しているところは、外に出る理由がないということです。一方で、自分の事業やあるいは産業自体が、国内ではもうだめだ、外に自分で打って出ないと将来がないなと思ってそこで一気にやれば、できると思います。日本の外に出て行って、がちゃがちゃやって、力をつけていけばいい。「俺は歯をくいしばって、そういうところに出て行ってやってやろう」「こんなところで甘っちょろい汁をすっていたってだめだ」と思う若者や、30代、40代が頑張ってくれたら、日本全体として変わってくると思います。規制で守られている国内だけにいると、純粋培養で「もやし人間」になってしまう。純粋培養は、人だけでなく、企業も国も弱めてしまう。

 

――新しい潮流として、たとえば、セキュリティ会社のセコムなどが、イギリスなどでかなりいろいろな試みをやっていますよね。

海外で、日本のセコムと同じやり方でセキュリティを提供しようとすると、「この国では、そんなことは過剰サービスですよ」と最初は言われる。でも、本当にやってみたら、お客さんが喜ぶんだそうです。日本人は顧客の要求レベルが高い。日本の強さは、顧客の要求度が高いことともいえます。サプライヤー側は、その要求にミートするだけのサービスをつくらなければなりません。それは、下手すると過剰サービスであったり、過剰品質であったりするわけですが、日本国内だけに通用するものと思い込んでいたら、海外でも本当は求められているという可能性もあります。

実はそういったモノやサービスは、日本に沢山あると思います。東京や関西に限らず、地方にも。地方の産業で、本当にグローバルに競争力のある「モノ」があるのだとしたら、あとは「ヒト」の問題ですね。グローバル人材をどうやって育てるかという。まさに留岡さんのご専門の部分です。

 

――鶴見さんはいまイギリスにおられて、イギリスから日本、とくに鳩山新政権下の日本はどのように見えますか。

友愛も平等もいいけれど、それだけではだめでしょう。また、「大企業が悪い」「グローバル化が悪い」という風潮にもたいへん疑問です。自動車、電機というのは、今まで海外でやたらと叩かれてきた。だから、ものすごくコンペティティブなのです。大企業が悪い、グローバル化が悪い、と言われているけれど、グローバルでこれだけ頑張ったから、今日の日本があるのであって、そんなことを言っていたら、日本の将来はないですよ。大企業=悪なわけではなくて、評価すべきところは正しく評価して、中小も含めてこれから頑張ろうじゃないか、国内事業にだけ引っ込んでいないで、海外に出て頑張れとか、そのために規制をなくそうとか考える方が、国のためと思います。

――僕も、最近はやりの「ナンバーワンよりオンリーワン」という言い方が嫌いで、「グローバルトップ3にならないと生き残れない」と思っています。でも、あるところで、「オンリーワンよりナンバーワン」と言ったら、顰蹙を買いまして(笑)。

日本全体にチャレンジングな精神がなくなってきてしまったように見えることが心配ですね。みんながしらけてきちゃったように見えます。日本は経済成長して、量的に拡大したけれど、質的な向上が追いついていない。平均的な生活水準は改善したものの、みんながハッピーというわけではない。お父さんが頑張って仕事をして年から年中働いてきたけれど、リストラされちゃった。大企業で働いても意味はない、云々と。

それで、我々の世代が一生懸命がんばってお金を稼いで、子供たちに良い教育をさずけたのに、挙げ句の果てに、その彼らがフリーターになってしまった。そうなってしまったとしたら、我々は何のためにやってきたのか。「お前ら、もう食わせないぞ。とっとと出て行って働いてこい」と、昔はそのくらい言っていたわけですが。

◆世界を入れる/世界に入る

――アイセックに関わられているのは、グローバルな若者を育てたいというお考えからでしょうか。

アイセックは海外インターンシップ事業などを行う、学生が運営するグローバル非営利組織ですが、私はメンター役として関わっています。彼らを育てたいというのもあるし、彼らから触発されたいということもあります。もともとの私の問題意識は、そういうグローバルな活動のなかに、そもそも日本人が少ないということです。中国やインド、東欧などの学生は、そうした活動もどんどんやっている。次のジェネレーション、潜在力のある若いジェネレーションのグローバル度が、日本は1周遅れでなくて、3周、4周遅れという危機感があります。

実は、日本の学生がアイセックなどの活動をしたがらない理由には、就職するときに結局、企業が異質なものをとりたがらないということがあります。企業の方が、「そんな活動はしないで日本で勉強だけしてきてくれれば、あとは企業のなかでトレーニングするから」というような意識でいて、それが学生にも伝わってしまっている。海外で一年間何かやってきたとか、どこかの会社でインターンで働いたことがあるという人は、大きな成長をしてきている。そういう人をとれば、本当は会社にとってものすごく役に立つのだけれども、それをいやがる。まっさらで画一的なら、あとは会社が色をつけられるからいい、と。

 

――尖った人が入ってきたときに、採用したはいいけれど、すぐに辞めたりすると、採用した人間の減点になる、ということがあります。だから企業が、辞めそうになくて、従順で、ほどよくその企業に染まる、という人を採用しがちというのはわかります。かつてソニーで、盛田さんなどの言葉で驚いたのは、社員に「辞めていいよ」と言っていたことです。つまり、「お前、売れる人材(salable)になっているか?」と。そういうメンタリティが、いまは企業の上のほうの人たちにあまりないように感じます。そういう環境があるだけでも、人が育つと思うのですが。

その通りですね。そして尖った人、海外経験のある人が企業に入ったときに気をつけなければいけないのは、せっかくそういう貴重な経験、「世界を入れる」経験をしてきているのに、それを小さくとらえてしまうこと。たとえば語学屋さんになってしまうというパターンがあります。

たまたま、海外経験があって英語ができるというような人がいると、「こいつの英語力を使って、翻訳、通訳させよう」とかいうことになる。それはグローバリゼーションではありません。英語ができる人を、異質に思ってしまう。日本人は同質化を、カンファタブルに感じるから、グローバルな要素を、異質なものとして排除してしまう。

――僕は「世界を入れる」というときに、個人として世界を自分の内側に入れるということと、移民を日本の国に入れる、というのと、両方の意味をイメージするのですが、移民についてはどうお考えですか。

島国で、世界から切り離されて、平和に小さく生きるのがいいのか、それとも、もっと開放して、異種交配をさせることがよいのか。私は後者だと思います。ダーウィンは、異種交配をして、適者が残っていく、ということを述べました(適者生存)。青白い顔をした日本人ばかりだと、いずれ平和に亡びてしまうのではないか。そんな危惧をもっています。

――だんだんとお湯の温度が上がっていっていることに気がつかなくて死んでしまう「ゆでガエル」のたとえは、本当に日本のことではないかと思ってしまいます。

自分で気がついていないということが、いちばん怖いですね。

◆黄金世代のグローバル経験をどう生かすか

――鶴見さんは、「Made in Japan」とともに「世界」を身中に入れ得た黄金世代の代表の一人だと、僕は思っています。「黄金世代」というのは、鶴見さんたち60歳以上の方々というイメージですが、その方々と会っていると、問題意識も違えば、経験値も全くわれわれの世代と違う。たとえば、ブラジルに工場を立ち上げたという人は、土地の買い取りから始めています。この世代の方々がいま何を考えているのか非常に興味があると同時に、われわれ40代はブリッジにはなれるかな、という思いがあります。問題意識の高い20代・30代と、経験値の高い60代。U字型の上と上をつなぐ役割を、僕自身も果たしたいと思っているのですが。

僕は、ある意味でロストジェネレーションではないかと思うんです。たとえば、就職して最初にアメリカに行った頃にビートルズが流行っていたな、というのはうっすらと覚えているのですが、以後、日本やアメリカの歌手で誰が流行っていた、という記憶は喪失している。なぜかというと、そういうことにかまっていなかった。これからの市場をどうやってつくっていくとか、そういうことに没頭していたので、ずっと戦地で戦っていた兵隊みたいなもので(笑)。終戦を知らずに30年間フィリピンのジャングルにいて日本に帰還した小野田寛郎さんみたいな状態です。だから、当時見過ごした映画を見ようとか、流行っていた音楽を聴こうとか、失われた記憶を取り戻すのが、これからの楽しみでもあります(笑)。今の60代・50代にはそういう経験者が非常に多いと思います。

 

――20年、30年、ずっと没頭されていたということなんですね。しかも、その没頭した対象がグローバルな市場だった方々の経験値というのは、そうとう濃い。

僕たちは今ここで勝たないと、と思って必死になって戦ったジェネレーションなんだけれど、今の人たちは、「けっこう勝ってるじゃん。別にドンパチ戦わなくても、侵略されるわけじゃないし」と思っている可能性があります。どうしたら、彼らはエキサイトし、チャレンジするのか。日本が立ち行かなくなって、海外に出て行くことが死活問題になれば違うけれど、そうはならないので。

ですから、僕らの持っているノウハウとか経験値を大いに使ってほしいけれども、本当に使ってもらえるのかな、という思いもあります。数は少なくてもいいけれど、尖った人が何人か出てきて、そういう人たちが引っ張ってくれるといいですね。アイセックの学生たちにも、「あなたたちは敢えてリスクをとり、敢えて新開地に足を踏み入れてほしい」と言っています。はっぱをかけたり、なだめすかしたり、インセンティブを与える、ということを常にやらないといけない。

これからのグローバル化はどんな産業でもよいのですが、そこには必ず、リーダーがいないとダメなんですね。そういう哲学をもった人がいないと。

――ひとつ思っているのは、過去、超ドメスティック産業だったところがグローバル化するときに、製造業でグローバルの経験を積んだ人が、トランスファーされていくとよいのではないかと。そうしたことは今後進むでしょうか。実際に、旧来のグローバル産業から、新たにグローバル化しようとしている産業に行った人を知っているのですが、実はあまりうまくいっていない例もあります。

これからは、産業間のグローバル人材のシフトは、十分ありえると思います。ただ、新しい産業に入るということと、グローバル市場で戦うということは、二つの意味のチャレンジです。だから、相当覚悟を決めて、歯をくいしばってでもやるということでないと、「こんなんじゃやっていられない」ということになってしまう可能性がある。大企業で甘やかされて育った場合、新たな産業でちょっとハードなことをやらせると、ついていけない、ということもあるのかもしれません。

(収録・2009年11月2日)

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